当山は臨済宗南禅寺派に属し吉祥山正伝護国禅寺という。創立者は東巌慧安禅師である。
文応元年(1260)に中国の栄より来朝した、兀菴普寧禅師に師事すること多年、遂にその蘊奥を極められたという。
文永十年(1273)に聖護院の静成法印が東巌禅師に帰依し、亀山天皇の勅許を蒙り京都烏丸今出川付近に祭殿一宇を建立したのに始まる。
後、弘安五年(1282)賀茂の祠官森経久が西賀茂の地に荘園を寄附され、現在の地に再建したのである。
元亨三年(1323)後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜り、堂塔伽藍は完備し洛北の名刹として偉観を誇った。
しかるに応仁の兵火にあい堂宇は悉く烏有に帰し、一山の衆徒は四方に離散し再び荒廃する有様となった。
その後豊臣秀吉が天下を統一すると、天正十三年(1585)寺領及山林の朱印状を附し再興をはからんとしたが果さず、徳川家康に至って寺領及境内地の朱印状が与えられ再興されることになった。
承応二年(1653)南禅寺塔頭金地院の小方丈を当山に移建し本堂としたものである。
同建造物は伏見桃山城の御成殿の遺構を移したものと伝えられている。
外観構成は、桁行13.8m、梁間10m、一重、屋根は入母屋造、こけら葺で方丈の形式をなしている
「血天井」
方丈の広縁の天井は、関ヶ原の戦いの直前伏見城に立籠った徳川方の重鎮鳥居彦エ門元忠以下、
三百八十余名がその落城の際割腹し果てた廊下の板を天井としたものである。
方丈の各室の襖絵は、慶長十年(1605)頃、伏見城本丸御殿を修理した際、徳川家康の発注により画かれたものである。ここに描かれているのは、中国杭州西湖(現在の浙江省杭州市)の真景である。
方丈の前庭で、白砂とサツキ等の刈込だけが並ぶ枯山水に、はるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園である。刈込は右方から左方へ七、五、三と配列されている。
この庭は「獅子の児渡し」と称されている。
9:00~17:00
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